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江戸からかみの復興を願って
(株)東京松屋 代表取締役社長 第18代 伴 利兵衛 (充弘) |
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私どもの店のある東上野・稲荷町は、お仏壇街のある町です。浅草通りをはさんで北向きの側は、お仏壇の漆に陽が当たらぬようにお仏壇屋さんが並び、南向きの側の元・西光寺様の門前に私どもの店があります。この界隈はお寺さんが多く、それは江戸時代の明暦の大火<明暦3年(1657)>の後、当時の江戸の中心地にあった寺院群が移転して新しい寺町を形成したからです。私どもの店は、そのお寺さんに紙を納めて居りました。店は火事の多かった江戸時代にも何度か焼け、また大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)3月9日・10日の東京下町大空襲でも丸焼けとなり、昔を伝える資料は、ほとんど何も残って居りません。災難のたびに風呂敷にくるんで上野の山に逃れた御本尊様と小さな過去帳とお位牌だけが、残って居ります。
それによりますと、創業者は松屋伊兵衛(まつやいへえ)と申しまして、元禄の頃、地本問屋を営んでいたようです。その後、紙の商いをするようになり、松屋利兵衛(まつやりへえ)と名乗り、代々襲名して居ります。幕末から明治にかけては、経師屋さんや表具師さんが使う紙類を中心に、襖紙、障子紙、掛軸の表装用の金襴・緞子(きんらん・どんす)などの裂地、襖榾(ふすまほね)、椽(ふち)、引手、錺(かざ)り金物の専門店として栄えました。 |
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幕末・明治初年(1868年)頃の弊店の木版引札。当時の営業品目一覧 「新形唐カミ類品々」と記され唐紙(からかみ)を商う。 |
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東京松屋の広告(昭和30年頃) |
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しかしながら終戦後は掛軸関連の需要が激減したため、焼け野原に再建される住宅用の襖紙の製造卸売に重点を移し、機械で量産される襖紙の全国卸売業で生きのびて参りました。私は昭和38年(1963)の卒業と同時に一歳年上の兄と共に家業に従事して参りましたが、入店当初より戦前私どもの店で扱っていた、本物の美しい手漉き和紙や、雲母(きら)の銀白色に輝く美しい手摺りの江戸からかみの見本帖を繰りますと、いつか必ず本物を収録した見本帖を発行して、もう一度、江戸からかみを復興したいと願って居りました。永い準備をへて、創業三百年記念として393点の手漉き和紙や手摺りの江戸からかみを収録した見本帖『彩(いろどり)』をやっと発行できましたのは、平成4年(1992)の春でした。同時に和紙研究家の久米康生先生に一年がかりで執筆を依頼して、『江戸からかみ その歴史的背景と多彩な展開』という専門書も自社から出版することができました。江戸時代にはからかみの需要は多くその文様の豊かさは『享保千型』と称され、江戸の家々の室内を美しく彩りました。 |
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その加飾の技法は、(一)木版を用いる唐紙師、(二)伊勢型紙(渋型紙)を用いる更紗師(火事の多い江戸では型紙の方が持ち出し易く、火災の時は、井戸の中や、穴を掘って埋めて型紙を救ったそうです)、(三)金銀の箔や砂子を使って自在に砂子絵を描く砂子師、
と大きく三つの技法に分業され、互いに技を競って居りました。
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今もスコットランドのグラスゴーのケルヴィングローブ博物館には、江戸の名工、小泉七五郎(こいずみしちごろう)さん(木版唐紙師)の摺った江戸からかみが13点伝わって居ります。その子孫と弟子は「唐七(からしち)」さん、「唐源(からげん)」さん、長岡さんと枝分かれして、木版摺りの技を、今も脈々と承け継いで居ります。
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平成3年(1991)には、江戸からかみの技法を伝える職人衆十軒と、私ども版元和紙問屋が発売元となり、江戸からかみ協同組合を結成し、平成4年(1992)に東京都の伝統工芸品の指定をいただき、平成11年(1999)には、経済産業省所轄の、国の伝統的工芸品の指定をいただきました。これらの工芸品は、暮らしに合わせて商品づくりを常に工夫してゆきませんと滅びてしまいます。平成19年(2007)には、念願でありました店を建て替え、1階から4階までは常設展示場とし、5階から上の賃貸集合住宅40戸には、明かり障子と江戸からかみのある部屋にしつらえました。展示場には沢山の実物大の襖と屏風を展示し、全国のお客様にご覧いただくことが私どもの願いです。
慶應義塾大学出版会「三田評論」平成22年(2010)2月号
巻頭随筆「丘の上」に掲載 |
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東京松屋UNITY(2007) |
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